concept

S字甕研究室(赤塚次郎 Akatsuka_Jiro)
伊勢湾沿岸部に存在した,個性的な器,S字甕にまつわる物語を追いかけ,その場面に立つ。
400年以上にわたり作り続けられた器であり,まさに古墳時代の東海地域を代表するモノである事にはかわりない。そして伝説が作られた・・。
それはS字甕誕生にまつわる部族社会の物語だと信じている。
S字甕を考える事,眺める事,それは古代伊勢湾沿岸部にまつわる不思議な物語を幻想することでもある。

LinkIcon赤塚次郎プロフィール


聖なる河の砂粒幻想

1980年代の終わり頃、廻間遺跡の報告書の作成にあたって、S字甕の胎土分析を実施した。その結果は私が想像していたのとはまったく異なる見解であり、驚くべき結論であった。分析を実施したパリノサーヴェイの矢作さんの口からは、「S字甕の砂つぶは濃尾平野ではありません」と聞かされた。そして「多くのS字甕が同じツチで出来ている」という重要な指摘でもあった。ではどこなのか。すぐにでも知りたい気持ちをおさえて、まずは分析結果を踏まえて,途方に暮れるながらハタと考えはじめることになる。そしてその後は多くの研究者と関係者のご協力を得て分析を重ねて、分析資料が蓄積していった。

1990年の廻間遺跡報告書の段階では、結論として3つの点が挙がった。

1:S字甕の製作には特別に選定された「土」を使用する。それは重鉱物的には「角閃石・黒雲母・ザクロ石」を主体とし、濃尾平野の在地産の土器に普遍的に見られる「両輝石」を主体とする一群のものとは明確に異なる。
2:特定な「土」の発見が軽量化を可能にし、独特な台付甕技法とあいまってS字甕が生み出された。
3:廻間III式期にいたると、胎土の厳密性が崩れ、多様化する。
第1の視点が最も重要な点であった、この時点では濃尾平野の砂礫を混ぜる可能性がない点が明らかとなり、「角閃石・黒雲母・ザクロ石」という点からS字甕の砂礫の採取地には「鈴鹿川・矢作川」の名が会話の中で上がっていた。
第2の点は、特定の土と軽量化の因果関係がまったく認めがたい。現在では、妥当な見解とはいえそうもない。当時の庄内甕研究等に影響されての視点であったが、やはりS字甕の誕生と特定の「土」という出合いがむしろ重要であり、軽量化と「土」、あるいはそうした機能的な考え方は現在は考えていない。土器製作やその機能、型式的な組列以外の視点から特定の「土」を見ようとしている。
第3は、現象面的にはそうであるが、それは厳密性が崩れるという視点より、特定の土を使用するという行為を踏襲している。という回りくどい言い方を踏まえ、「特定の土(雲出の砂粒)を薄めて使う」「混在させる事により,伝統を継承する」という視点にたつ。

1994年の松河戸遺跡の報告書を作成する中で、

永草康次さんから大変驚くべき分析結果をもらった。それはS字甕の「補充技法」の部分には濃尾平野の砂礫が見られるという指摘であった。補充技法とはS字甕独特の技法であり、台部と体部の接合部にだけ特徴的なツチを使用するというものである。その部分に着目した永草さんの着眼点の凄さにおどろきながら、S字甕の体部の土は濃尾平野以外の特定の土で、補充技法に使用する土が濃尾平野であるという資料が確実に存在する。このことはいかなることであろうか。少なくてもS字甕はある特定地域でまとめて,限定的に生産され流通した器ではない事は間違いないようだ。またまた謎が深まるばかりであった。
分析の手法をこの時点から「S字甕0類やA類」に絞り込み、地域も厳密にする方向に向かっていった。しかし「S字甕の土はどこか」といった単純な命題の結論はなかなか出せないまま、・・・・・・。

S字甕の分析を本格的に開始してから早くも10年近くを迎えようとしていた。
それは,ある夏の日、事は急にやってくる。まったく別な視点から。

それは石斧に関する分析であった。

当時、愛知県埋蔵文化財センタ-に勤務していた服部俊之さんと石斧の素材をもとめて青川へ行こうと考えた。青川とは堀木真美子さんが指摘している「ハイアロクラスタイト」の母岩がある青い川のことであり、三重県員弁郡に存在する。私はむしろ青川付近にかつて存在した「鉱山」に興味をもっていた。銅の鉱脈があると聞いたからである。そして青い川から私たちは、鈴鹿川に向かって川の色を見に南下することになる。やがて雲出川の河原に立ったときのことであった。服部さんが「赤塚さんこの川は黒いですね、鈴鹿は白いですが、雲出は黒い」といった。そして彼は河原の石ころを手にし、「この丸い粒々はザクロ石のようですね。」この時点で、S字甕の土は下馬評では最も高かった鈴鹿ではなく、雲出ではないかと思いはじめた。そうか「雲出」だったか。
黒い川、それがなぞ解きの最初の入り口になる。

さっそく、伊勢湾に流れ込む川の砂礫分析を

服部さんが実施しはじめた。同時に雲出といえば一志郡であり、S字甕が大量に出土している和気さんの(^_^)が浮かんだ。一志の土器を分析する必要がある。2世紀から3世紀の一志郡の土器が壺も甕も鉢も全てS字甕と同じ混和材だとしたら。この場所が混和材の採取地である根拠にできるのではないかと微笑んだ。和気さんには快く承諾いただき、そうそうに土器がやって来た。矢作さんに分析をお願いした。結論は座談会でという無理な約束で。素材はこの時点ですべて出そろっていた。

1997年「S字甕の混和材を考える」という不思議な座談会が開始された。
参加者はS字甕ハンター8人である。そこでのキーワードは「雲出川」であった。

*分析に多くのデータの借用をお願いしました。
快く提供していただきました関係者、ならびに関係諸機関に心からお礼申し上げます。
参考文献:S字甕胎土研究会「S字甕の混和材を考える」『考古学フォーラム』9 1997

追記

西上免遺跡の報告の中で、パレオ・ラボの藤根さんからパレス壺には「大量の火山ガラス」が混和材して意図的に用いられている。そして植物珪酸体の化石も、という指摘を受けた。パレス壺、おまえもか。
濃尾平野の土ではない。廻間様式を代表する壺と甕が尾張の土を混ぜることはなく製作されている。土器の型式とは一体なんであろうか。

赤塚の砂粒幻想

嬉野町片部・貝蔵遺跡からは溝と堰が限りなく幾重にも見つかっている。遺跡の広さはどれくらいなのだろうか。一般的な集落遺跡の景観とはほどとおい、この不可思議な遺跡。最古の文字の発見で有名になった。和気さんの案内で何度も訪れたが、不思議な空間に静寂さが似合う遺跡だなという印象がつきまとっていた。

2世紀のある日、伊勢湾沿岸部の各部族長たいちが集る祭典が開催された。
場所はアザカ國の静寂な空間である。意図的にくねくねと曲がって作った溝に水を流し、堰を設けて大量の砂つぶをためる。
「今年の砂つぶは粒ぞろいでまことに良い・・・」
そして祭典が始まり、そこで使用した器はすべて処置される。伊勢湾の各部族は,聖なる河・雲出の砂つぶを携えて各ムラに還っていく。
その砂つぶで作られる土器こそS字甕である。

砂つぶ(その祭りと誇り)を共有する部族。そんな夢を見る。

S字甕.jpg